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徳川家康の遺訓は本物ではない?本当の言葉と遺言を紹介

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし…」。徳川家康の遺訓としてあまりにも有名なこの言葉は、多くの人の座右の銘となり、人生の指針とされてきました。しかし、この遺訓が実は偽物だという説があることをご存知でしょうか。

この記事では、徳川家康の遺訓が本物なのかという長年の疑問に対し、その全文を紹介しながら、偽物とされる根拠を詳しく解説します。本当は誰が作者で、一体誰が作ったのか、その謎に迫ります。

また、有名な遺訓が家康本人の言葉でないとしたら、本当の遺言や死を前に詠んだ辞世の句、心に響く他の名言は何だったのか。家康ゆかりの日光東照宮での扱いにも触れながら、歴史の真実を明らかにしていきます。

この記事で分かること
  • 有名な徳川家康の遺訓が偽物とされる決定的な根拠
  • 遺訓を創作した本当の作者と、世に広まった歴史的背景
  • 徳川実紀などに記録されている家康の「本当の遺言」
  • 人生の教訓となる、家康が残した他の名言の数々
目次

徳川家康の遺訓は本物?定説を徹底解明

まずは有名な遺訓の全文を紹介

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし…」この一節から始まる言葉は、経営者のスピーチから自己啓発書、歴史ドラマの台詞に至るまで、様々な場面で引用され、多くの日本人の心に深く刻まれています。私たちが「徳川家康の遺訓」として広く認識しているのは、以下の言葉です。

人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。

不自由を常と思えば不足なし。

こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。

勝つ事ばかり知りて、負くる事を知らざれば、害その身にいたる。

おのれを責めて人をせむるな。

及ばざるは過ぎたるよりまされり。

この言葉は、人生を重荷を背負って進む長い旅路にたとえ、「焦らず、現状に不満を抱かず、忍耐を貫き、他者を責めず、常に謙虚であれ」という、普遍的かつ深遠な教えを説いています。特に、幼少期の人質生活から始まり、数々の苦難を乗り越えて天下を統一した家康の生涯と重ね合わせることで、その言葉は一層の重みと説得力を持ちます。

この質実剛健な人生哲学は、私たちが抱く「徳川家康」の人物像、すなわち「慎重で忍耐強く、思慮深い策略家」というイメージを決定づけたと言っても過言ではありません。そのため、江戸時代から現代に至るまで、多くの人々の心を捉え、人生の教訓として語り継がれてきました。しかし、このあまりにも有名な一節の出自については、専門家の間で長年にわたる議論が続けられてきた歴史があります。

遺訓が偽物とされる決定的な根拠

先に結論を述べると、現在では「この遺訓は徳川家康本人の言葉ではなく、後世に創作されたものである」というのが歴史学における定説となっています。多くの人が信じてきた言葉がなぜ偽作とされるのか、そのように判断される理由は、主に以下の二つの揺るぎない客観的な根拠に基づいています。

徳川家の公式記録に記載がない

最も大きな根拠の一つが、江戸幕府が公式に編纂した歴史書である『徳川実紀』に、この遺訓に関する記述が一切見当たらない点です。

『徳川実紀』は、8代将軍吉宗の命により、林家の儒学者らを中心に編纂が開始された幕府の正史です。初代家康から10代家治までの治世を、膨大な日記や記録、諸大名の文書などを基に詳細に記録した、信頼性の非常に高い一次史料群として知られています。

この書物には、家康の日常的な発言や、他の大名とのやり取り、さらには鷹狩りの際のエピソードといった些細な言動までもが収録されています。もし家康が、後世に伝えるべき重要な教えとしてこのような遺訓を残していたのであれば、幕府の威信をかけて編纂されたこの公式記録に記載がないのは極めて不自然です。幕府の創始者の重要な言葉が抜け落ちているという事実は、この遺訓が家康本人の言葉ではないことを何よりも雄弁に物語っています。

近世文学研究による学術的な論証

学術的な観点から偽作説を決定づけたのが、日本の近世文学研究における最高権威の一人である、故・中村幸彦氏の研究です。

中村氏は、浮世草子をはじめとする江戸時代の文学や文化に関する深い知見を持つ専門家です。彼は文献学的なアプローチを用い、この遺訓の文体や使用されている語彙を詳細に分析しました。その結果、これらの言葉遣いが、家康が生きていた戦国時代末期から江戸時代初期のものではなく、社会や文化が成熟した江戸時代中期以降の 특징を顕著に示していることを明らかにしました。

言語は時代と共に変化します。中村氏の研究は、文章のスタイルや言葉のニュアンスといった側面から、この遺訓の成立年代を科学的に特定したものです。このような専門家による厳密な学術的分析が、偽作説に決定的な裏付けを与え、現在では学界の通説として広く受け入れられるに至っています。

では誰が作った?判明している作者

徳川家康の言葉ではないとしたら、一体誰がこの格調高い遺訓を作り上げたのでしょうか。その後の研究によって、この遺訓を現在私たちが知る形にまとめ、世に広めた中心人物は、水戸藩の儒学者であった池田佐平次(通称は松韻)であると特定されています。

池田佐平次がこの遺訓を世に出したのは、1856年(安政3年)に著した『東照公遺訓』という書物においてです。当時はペリーの黒船来航(1853年)以降、国内が騒然とし、幕府の権威が揺らぎ始めた幕末の動乱期にあたります。このような国家的な危機感の中で、人々が精神的な支柱として、江戸幕府の創始者である偉大な家康の「教え」を求めたとしても不思議ではありません。

重要なのは、池田が全くのゼロからこの文章を創作したわけではないという点です。彼は、それまでに民間で語り継がれていた家康に関する様々な逸話や、断片的な教訓、あるいは人々の心の中にあった「理想の家康像」を集め、一人の儒学者として体系的で格調高い文章に編纂し直したのです。つまり彼は「創作者」であると同時に「編纂者」であり、だからこそこの遺訓は、家康本人の思想や哲学を見事に反映しているかのように感じられるのです。

なぜ偽物が広まったのか背景を解説

偽作であるにもかかわらず、なぜこの遺訓はこれほどまでに広く受け入れられ、本物として信じられてきたのでしょうか。その背景には、いくつかの複合的な社会的・文化的要因が存在します。

第一に、遺訓の内容が持つ時代を超えた普遍的な魅力です。「忍耐」「努力」「自己抑制」「謙虚」といったテーマは、江戸時代の武士階級が重んじた武士道の精神と深く共鳴しました。さらに時代が下り、明治時代に入ると、この遺訓は新たな役割を担うことになります。

欧米列強に追いつくため「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに掲げた明治政府にとって、苦難に耐えて偉業を成し遂げた家康のイメージと結びついたこの遺訓は、国民の精神を涵養するための絶好の教材でした。特に、道徳教育の中核であった「修身」の教科書などを通じて、勤勉や忍耐を尊ぶ国民道徳として広く浸透していったのです。

第二に、活版印刷技術の普及というメディアの発達も見逃せません。書籍や雑誌が安価に大量生産できるようになったことで、この遺訓は知識層だけでなく、一般大衆にも急速に広まっていきました。

そして第三に、「徳川家康」という日本史上屈指の偉人の言葉として語られることで、言葉そのものに絶大な権威と説得力が与えられた点です。一度、教育者や経営者といった権威ある人物がこの言葉を引用すると、それがさらなる権威を生み、雪だるま式に「本物らしさ」が増していきます。人々は内容の素晴らしさも相まって、その出自を疑うことなく受け入れ、こうして偽作の遺訓は、本物以上に人々の心に深く根付いていったのです。

日光東照宮における公式の扱い

徳川家康を神「東照大権現」として祀る総本宮、日光東照宮では、この遺訓はどのように扱われているのでしょうか。家康と最もゆかりの深い場所の公式見解は、多くの人が気になるところです。

現在、日光東照宮の公式ホームページや、現地で授与されるお守り、掛け軸などには、この遺訓が紹介されています。しかし、その表記を注意深く見てみると、東照宮はこれを「徳川家康公が詠んだ」「家康公直筆の」といった形で断定はしていません。あくまで家康公の教えを示す「御遺訓」として、尊び、紹介する形をとっています。

参考資料:久能山東照宮サイト「御遺訓|徳川家康公について」

これは、史実の正確性を尊重し、この遺訓が歴史学的には家康本人の作ではないことを認識している一方で、その教えの内容が、家康の精神や哲学を見事に体現するものであることを認めているからに他なりません。神社仏閣においては、学術的な真偽とは別に、信仰の対象として、あるいは参拝者への道しるべとして、大切に受け継がれてきた「伝承」や「縁起」が大きな意味を持ちます。

東照宮の扱いは、歴史的な事実と、文化的に形成されてきた価値の両方を尊重した、非常に丁寧で賢明な姿勢であると解釈することができるでしょう。

徳川家康の遺訓が本物でないなら本当は?

記録に残る!これが本当の遺言

有名な遺訓が後世の創作であるならば、徳川家康が実際に残した「本当の遺言」とはどのようなものだったのでしょうか。その答えは、江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』や、家康に近仕した僧侶・南光坊天海の記録である『本光国師日記』などの信頼できる史料に残されています。

それらの史料から浮かび上がるのは、人生訓のような抽象的な教えとは全く異なる、極めて現実的かつ政治的な、天下人としての最後の「事業計画」でした。戦国の世を終わらせ、二百数十年続く泰平の世の礎を築いた人物の最後の言葉は、個人の生き方ではなく、国家の未来に向けられていたのです。

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項目有名な遺訓の内容(要約)本当の遺言の内容(要約)
主題個人の生き方、心構えに関する人生訓死後の自身の神格化、幕府の安泰、大名の統制
性格哲学的、道徳的現実的、政治的、戦略的
具体例「不自由を常と思え」「怒りは敵と思え」「遺体は久能山に納め、一周忌後に日光山へ祀れ」
具体例「おのれを責めて人を責めるな」「豊臣氏をはじめとする諸大名への対応を誤るな」

家康の本当の遺言の要点は、主に以下の三つの柱から成り立っていました。

自身の神格化と新たな権威の創出

家康が最も心を砕いたのが、自らの死後の扱いでした。彼は、「遺体は駿府の久能山に納め、葬儀を江戸の増上寺で行い、位牌を三河の大樹寺に立てること。そして一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて自分を『神』として祀り、日本全体の平和を守る鎮守とせよ」と命じました。

これは単なる宗教的な願いではありません。武力で天下を統一した武家の棟梁が、天皇の権威とは異なる新たな「神」という権威をまとうことで、徳川幕府による支配を絶対的なものにしようとする、高度な政治的計算がありました。この計画の実現には、側近であった天台宗の僧・天海が深く関わったとされています。

幕府体制の永続化

家康は、二代将軍・秀忠をはじめとする幕閣に対し、政権運営の具体的なノウハウを伝えました。これには、諸大名を統制するための基本法である「武家諸法度」の遵守や、朝廷・公家を統制するための「禁中並公家諸法度」の運用などが含まれていたと考えられます。個人的な感情ではなく、法と仕組みによって国家を統治するという、近代的なシステムの基礎を遺言として託したのです。

政権安定のための細かな配慮

大坂の陣で豊臣家を滅ぼしてから、わずか1年後の死でした。そのため家康は、いまだ不安定な世情を深く憂慮していました。遺言の中では、豊臣恩顧の大名への対応や、幕府内部の人間関係に至るまで、政権の安定を脅かす可能性のある火種を一つひとつ摘み取るような、細やかな指示が与えられたと記録されています。

このように、本当の遺言は、天下人として自らが築いた江戸幕府という巨大な組織をいかにして未来永劫存続させるかという、極めて戦略的な視点から語られたものでした。

死を前に詠んだとされる辞世の句

政治的・戦略的な「遺言」とは別に、家康が死を目前にしてその心境を詠んだとされる「辞世の句」もいくつか伝わっています。これらは、天下人という鎧を脱いだ一人の人間としての死生観や、人間的な側面が垣間見える貴重な言葉です。

代表的な句としては、以下の二つが知られています。

嬉やと 二度さめて 一眠り 浮世の夢は 暁の空

一度目が覚めて「ああ、まだ生きていて嬉しい」と安堵し、もう一度眠ってまた目が覚めた。思えば75年の波乱の生涯も、夜明け前の空に儚く消えていく夢のようなものであったな、という意味に解釈されます。

人質として過ごした幼少期、織田信長との同盟、本能寺の変後の伊賀越え、豊臣秀吉への臣従、そして関ヶ原の戦い。数えきれないほどの死線を越え、天下を手中に収めた人物が、自らの生涯を「暁の空に消える夢」と表現したところに、彼の到達した達観の境地がうかがえます。

先に行く あとに残るも 同じ事 つれて行けぬを 別とぞ思ふ

先に死ぬ者も、後に残される者も、いずれは同じように死という道をたどる。結局は皆同じ場所へ行くのだ。ただ、愛する者たちと共に連れ立って死出の旅路へ行けないこと、これだけが真の「別れ」というものなのだ、という意味です。

戦国の世で、敵だけでなく、多くの部下や、さらには実の息子(松平信康)の死までも見送らなければならなかった家康。多くの「別れ」を経験してきた彼だからこそ詠めた、死を静かに受け入れる無常観と、残される者への深い情愛がにじみ出ています。

これらの句は、冷徹な策略家というイメージとは異なる、家康の人間的な温かみや深い人生観を私たちに伝えてくれます。

座右の銘にしたい名言集

有名な遺訓は創作でしたが、徳川家康が残したとされる言葉の中には、他にもリーダーシップや組織論、人生の知恵に満ちた本物の名言が数多く存在します。それらは、彼の具体的な行動や政策と結びついているため、より強い説得力を持っています。ここでは、現代の私たちにとっても座右の銘となりうる言葉をいくつか紹介します。

及ばざるは過ぎたるより勝れり

有名な遺訓の一節にも引用されていますが、これは家康自身の言葉ともいわれます。「何事もやり過ぎてしまったり、完璧を求めすぎたりするよりは、少し足りないくらいの方が結果的に良い」という意味です。

この言葉は、家康の現実主義的なバランス感覚を象徴しています。例えば、関ヶ原の戦いの後、彼は西軍についた外様大名を完全に排除するのではなく、領地を削るなどして巧みに存続させました。力を持ちすぎることを常に警戒し、物事を「八分目」で収める彼の統治術は、まさにこの言葉を実践したものと言えるでしょう。

堪忍は無事長久の基

「耐え忍ぶことは、物事を平穏に長く続けるための基礎である」という意味です。これは、家康の人生哲学そのものともいえる言葉です。

ただし、家康の「堪忍」は、ただひたすら我慢することではありませんでした。今川家や織田家に従属していた若い頃は、屈辱に耐えながら力を蓄え、好機を待ちました。彼の忍耐は、常に未来を見据えた戦略的なものであり、だからこそ最終的に天下を手にすることができたのです。

いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある

「自分の過ちを恐れずに指摘し、忠告してくれる部下は、戦場で一番に敵陣に乗り込む勇猛な武将よりも価値がある」という意味です。

これは、家康の優れた組織マネジメント論を表しています。彼は、自分に媚びへつらう者よりも、本多正信のように常に諫言を呈する家臣をこそ重用しました。多様な意見に耳を傾け、組織内に健全な批判精神を許容することが、長期的に安定した強い組織を作る上で不可欠であると、身をもって知っていたのです。

これらの言葉は、現代のビジネスや組織運営、そして私たち個人の生き方においても、多くの示唆を与えてくれます。

徳川家康の遺訓が本物かを知る総まとめ

この記事で解説した「徳川家康の遺訓」に関する要点を、最後に箇条書きでまとめます。

  • 有名な「人の一生は…」で始まる徳川家康の遺訓
  • 現在では後世に創作された偽物というのが歴史上の定説
  • 遺訓が家康本人の言葉ではないとする根拠は主に二つ
  • 一つは幕府の公式史書『徳川実紀』に記載がないこと
  • もう一つは近世文学研究者による学術的な論証があること
  • この遺訓を現在の形にまとめた作者は池田佐平次という人物
  • 彼が1856年に著した『東照公遺訓』が原型とされる
  • 偽作にもかかわらず、その普遍的な内容から広く受け入れられた
  • 特に明治時代の修身教育などを通じて国民道徳として広まった
  • 日光東照宮では家康本人の作とは断定せず教えとして紹介
  • 家康が実際に残した本当の遺言は極めて政治的な内容だった
  • 自らの神格化や幕府の安泰を願う現実的な指示を残している
  • 死を前にした心境を詠んだとされる辞世の句も複数伝わる
  • 遺訓以外にも「及ばざるは過ぎたるより勝れり」などの名言がある
  • 歴史の事実を知ることで家康という人物像をより深く理解できる

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