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承久の乱が生んだ異例の天皇、後嵯峨天皇の生涯

歴史の教科書に登場する後嵯峨天皇。彼がどのような人物で、なぜ即位できたのか、その背景には承久の乱という大きな歴史の転換点がありました。天皇として、また上皇として一体何をした人なのか、そして彼が行った院政とは何だったのか、わかりやすく解説します。

特に、後嵯峨天皇の物語の中心には、彼の子である後深草天皇と亀山天皇をめぐる皇位継承問題があります。特定の皇子への寵愛が、なぜ後深草天皇の関係をこじらせ、後の日本の歴史を大きく揺るがす原因となったのでしょうか。この記事では、そんな後嵯峨天皇の生涯や逸話、さらには天皇陵の場所や歴史の覚え方まで、あなたの疑問に多角的に答えていきます。

この記事で分かること
  • 後嵯峨天皇が予期せず天皇に即位できた歴史的背景
  • 天皇、そして上皇としての後嵯峨天皇の具体的な政治活動
  • 後の歴史に大きな影響を与えた皇位継承問題の根本原因
  • 後嵯峨天皇という一人の人物が歴史に残した功績と課題
目次

後嵯峨天皇とは?承久の乱を経て即位した生涯

どのような人物?面白い逸話も紹介

後嵯峨天皇(1220年〜1272年)は、武士が実権を握る鎌倉時代中期に在位した第88代天皇です。その人物像については、多くの歴史書が「温厚で心優しい性格であった」と記しており、強い自己主張で政治を動かすというよりは、周囲との調和を重んじる人物であったと考えられています。

政治的な野心よりも、和歌や管弦といった文化・芸術を深く愛する、雅やかな一面が特に際立っていました。この時代、朝廷の権威が揺らぐ中で、彼は文化の継承者としての役割を大切にしていたのかもしれません。

しかし、その穏やかで優しい性格は、裏を返せば政治の重要な局面での「決断力の不足」として映ることもありました。特に、自身の後継者問題において、二人の皇子への愛情の深さから明確な指名を行わなかったことは、その後の皇室、ひいては日本の歴史に大きな混乱を招く遠因となります。彼の人間的な魅力と、為政者としての課題が表裏一体となった生涯であったと言えるでしょう。

笛の達人にまつわる逸話

後嵯峨天皇の文化人としての一面、そしてその豊かな感受性を伝える有名な逸話があります。当時、笛の名手として知られた大神基政(おおがのもとまさ)を召して秘曲を演奏させた時のことです。

基政の奏でる音色が最高潮に達したとき、後嵯峨天皇はそのあまりの素晴らしさに言葉を失い、ただ静かに涙を流したと古典『古今著聞集』は伝えています。優れた芸術に触れた際、言葉で評価するのではなく、心で深く共鳴し、涙でそれを示すという行為は、彼が極めて繊細な感性を持つ芸術家肌の人物であったことを物語っています。この鋭い感受性が、後に政治判断の場で情に流される一因となった可能性も考えられます。

なぜ即位できた?承久の乱との意外な関係

後嵯峨天皇の即位は、日本の皇位継承の歴史の中でも極めて異例なものでした。彼自身に強い即位の意志や血統的な正当性があったわけではなく、まさに歴史の偶然が彼を天皇の座へと導いたのです。その最大の背景となったのが、1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を掲げて起こした「承久の乱」です。

この乱で朝廷側が完敗した結果、首謀者であった後鳥羽上皇、そしてその皇子である土御門上皇と順徳上皇の三上皇が島流しに遭うという前代未聞の事態となりました。これにより、後鳥羽上皇の直系であった仲恭天皇は廃位させられ、皇位継承の有力候補者が一掃されてしまったのです。

一方で、後嵯峨天皇の父である土御門上皇は、父・後鳥羽上皇の倒幕計画に反対していたとされます。この立場が考慮され、乱の後、幕府から直接的な処罰を受けることはありませんでした。

このような状況の中、鎌倉幕府(特に執権・北条氏)は、朝廷をコントロールしやすく、かつ政治的に中立な人物を新たな天皇に立てる必要がありました。そこで白羽の矢が立ったのが、乱に直接関与しなかった土御門上皇の皇子、すなわち後嵯峨天皇だったのです。彼が天皇に選ばれたのは、彼が最も優れていたからではなく、幕府にとって最も「都合が良かった」からであり、まさに「漁夫の利」のような形で皇位を手にすることになったと考えられています。

天皇陵の場所や覚え方をわかりやすく解説

後嵯峨天皇という人物を学ぶ上で、その生涯の終着点である陵(みささぎ、お墓)の場所や、複雑な歴史的背景を記憶に定着させるためのヒントを知っておくと、より立体的な理解が可能になります。

天皇陵の場所

後嵯峨天皇の陵は、宮内庁によって「嵯峨南陵(さがのみなみのみささagi)」と定められています。その所在地は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町で、世界遺産にも登録されている臨済宗の大本山・天龍寺の広大な敷地内にあります。

参考資料:宮内庁「後嵯峨天皇 嵯峨南陵」

曹源池庭園で有名な天龍寺は、国内外から多くの観光客が訪れる京都・嵐山を代表する名刹です。その静かな境内の中に、後嵯峨天皇は眠っています。歴史上の人物の足跡をたどりながら、実際にその場所を訪れることで、より深い学びを得ることができるでしょう。

後嵯峨天皇の覚え方

後嵯峨天皇の生涯と功績を覚えるには、いくつかのキーワードを関連付けるのが効果的です。

  1. 名前と場所をリンクさせる
    • 天皇の「後嵯峨」という名前と、陵がある「嵯峨野」という地名が共通しています。この点を強く意識し、「後嵯峨天皇は、嵯峨野に眠る」とセットで記憶するのが最も簡単な方法です。
  2. 歴史的事件とセットで覚える
    • 彼の即位のきっかけとなった「承久の乱」と結びつけ、「承久の乱の“後”に、嵯峨野から選ばれた天皇」というストーリーで覚えるのも良いでしょう。“後”という字が名前にも含まれているため、時代の流れをイメージしやすくなります。
  3. 功罪をセットで覚える
    • 彼の治世の功績である「院政の実施」と、最大の課題となった「皇位継承問題(持明院統と大覚寺統への分裂)」を功罪として対で覚える方法です。この二つのキーワードが、彼の政治家としての評価の核心部分を的確に表しています。

後嵯峨天皇の治世「院政と歴史に残る大問題」

何をした人?院政とは何かを解説

後嵯峨天皇の政治的なキャリアを理解する上で、天皇としての短い治世と、その後に長く続いた上皇としての治世(院政)を分けて考えることが鍵となります。特に彼の政治的影響力が最も発揮されたのは、天皇の座を退いた後の院政期でした。

院政とは何か

まず「院政」とは、天皇が皇位を後継者(多くは自身の子や近親者)に譲った後、「上皇(太上天皇)」の立場で政治の実権を握り続ける統治形態を指します。この制度は平安時代後期の白河上皇によって確立され、天皇という公式の立場に伴う儀式や慣習の制約から解放されることで、より直接的かつ自由な政治判断を下すことを可能にしました。上皇は自身の拠点である「院(いん)」で政務を行ったため、「院政」と呼ばれます。

後嵯峨天皇の政治活動

後嵯峨天皇の天皇としての在位期間は、貞応元年から寛元4年(1242年〜1246年)までのわずか4年ほどでした。承久の乱の直後ということもあり、朝廷の権力はまだ不安定で、政治の実権は鎌倉幕府や藤原氏の流れをくむ摂関家が依然として強く握っていました。

しかし、寛元4年(1246年)にわずか4歳であった後深草天皇に譲位し上皇となってからは、崩御する文永9年(1272年)までの約26年間、院政のトップとして朝廷に君臨します。この期間、彼は承久の乱で失墜した朝廷の権威回復を目指し、人事権を行使して自身の側近を要職に就けるなど、巧みな政治手腕を発揮しました。

また、文化の振興にも力を注ぎ、勅撰和歌集である『続古今和歌集』の編纂を命じたことは、彼の文化的な功績として特筆されます。しかし、彼の政治活動で最も後世に大きな影響を与え、そして最大の問題となったのが、自身の二人の皇子をめぐる皇位継承問題でした。彼の政治力のすべてが、この一点に集約されていったのです。

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役職期間主な出来事や政治的立場
天皇1242年〜1246年承久の乱後の混乱が残る中で即位。鎌倉幕府の意向が強く、政治的実権は限定的。
上皇(院政)1246年〜1272年政治の中心となり、朝廷を主導。勅撰和歌集の編纂を命じる一方、皇位継承問題に深く関与し、後の混乱の原因を作る。

なぜ対立?子である後深草天皇と亀山天皇への寵愛

後嵯峨天皇の治世が歴史の大きな転換点となった最大の理由は、極めて個人的な感情、すなわち我が子への愛情の差にありました。この家族内の問題が、後に「両統迭立(りょうとうてつりつ)」、そして日本が二つの朝廷に分かれる「南北朝時代」という約60年にも及ぶ大動乱の直接的な引き金となったのです。

兄・後深草天皇と弟・亀山天皇

後嵯峨天皇は、まず長男である後深草天皇に皇位を譲りました。しかし、その後に生まれた弟の亀山天皇が聡明であったことから、後嵯峨上皇の愛情はこちらに集中するようになります。彼の亀山天皇に対する「寵愛」は尋常ではなく、ついには正長元年(1259年)、まだ17歳であった兄・後深草天皇に退位を迫り、溺愛する弟の亀山天皇を強引に即位させました。

この一連の流れは、当然ながら後深草上皇とその周辺の人々に大きな不満と屈辱感を抱かせ、二人の皇子の間に修復不可能な亀裂を生じさせることになりました。

皇統の分裂「持明院統と大覚寺統」

問題は、後嵯峨上皇が次の皇太子、すなわち「皇位の正統な後継者」をどちらの系統にするのかを明確にしないまま、文永9年(1272年)に崩御してしまったことで決定的となります。彼の遺志は曖昧なままで、判断は鎌倉幕府に委ねられる形となりました。これにより、朝廷は二つの派閥に完全に分裂します。

  • 持明院統(じみょういんとう)
    • 兄である後深草上皇の血筋を引く系統です。名前は、後深草上皇の御所であった持明院に由来します。彼らは、本来の長男筋である自分たちこそが正統な皇位継承者であると強く主張しました。後の「北朝」につながる皇統です。
  • 大覚寺統(だいかくじとう)
    • 弟である亀山天皇の血筋を引く系統です。こちらも、亀山上皇の御所であった大覚寺に由来します。彼らは、後嵯峨上皇の寵愛を受けた自分たちこそが正統であると主張しました。後の「南朝」につながる皇統です。

後嵯峨上皇の優柔不断、あるいは愛情に基づいた政治判断は、結果として皇室を二つに引き裂く最悪の事態を招きました。この後、両統が交互に皇位に就く「両統迭立」という不安定な時代が続きますが、最終的には両者が完全に決裂し、それぞれが正当性を主張する「南北朝時代」へと突入していくことになるのです。

【まとめ】後嵯峨天皇の決断が後世に与えた影響

  • 後嵯峨天皇は鎌倉時代中期の第88代天皇で温厚な性格でした
  • 承久の乱で皇位継承者がいなくなり漁夫の利の形で即位しました
  • 天皇としての在位期間は約4年と比較的短いものでした
  • その後約26年間にわたり上皇として院政を行い実権を握りました
  • 院政とは天皇が譲位した後に上皇として政治を行うことです
  • 彼の治世で最大の問題は二人の皇子をめぐる皇位継承問題でした
  • 長男の後深草天皇と、弟で寵愛した亀山天皇が中心人物です
  • 後嵯峨天皇は兄の後深草天皇に譲位を迫り弟の亀山天皇を即位させました
  • この寵愛が兄弟間に深刻な亀裂と対立を生み出す原因となりました
  • 崩御するまで次の皇太子を明確に指名せず問題を先送りにしました
  • 結果として皇室は持明院統と大覚寺統の二つに分裂しました
  • 持明院統は兄の後深草天皇の血筋であり北朝の祖となります
  • 大覚寺統は弟の亀山天皇の血筋であり南朝の祖となります
  • この皇統の分裂が約60年も続く南北朝時代の動乱を招きました
  • 後嵯峨天皇の一人の愛情が歴史を大きく動かす結果となりました

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