京都の有名な観光地、銀閣寺を訪れる多くの人が抱く「銀閣いつ建てられた」という素朴な疑問。この記事では、その核心に迫ります。銀閣寺を建てた人は誰で、一体何時代のことだったのか。そして、そもそも建てられた目的や、実際の完成までに何年かかったのかも気になりますよね。銀閣寺の歴史を簡単に紐解いていくと、よく比較される金閣寺はどっちが先にできたのか、そして最大のミステリーである、なぜ銀箔が塗られていないのかという深い問いにもつながっていきます。銀閣がいつ完成したのか、その正確な答えと背景を、誰にでも分かりやすく解説します。
- 銀閣寺が建てられた正確な年号と時代背景
- 創建者である足利義政の人物像とその目的
- 金閣寺との建立時期や文化的な違い
- 「銀閣」なのに銀箔が貼られていない理由の諸説
銀閣いつ建てられた?【結論】建てた人から目的まで
建てた人は誰で、何時代に建てた?
銀閣寺の創建を命じた人物は、室町幕府の第8代将軍である足利義政です。祖父に金閣を建てた足利義満を持つ義政ですが、その華やかな祖父とは対照的に、彼は政治の世界よりも芸術を深く愛し、歴史に名を刻むほどの優れた審美眼を持つ文化人として知られています。将軍としての政治手腕には厳しい評価がされる一方で、日本の美意識に与えた影響は計り知れません。
銀閣寺が建てられた時代は、15世紀後半の室町時代中期です。この時期の日本、特に京都は、「応仁の乱」(1467-1477年)という約11年にも及ぶ大戦乱によって中心部が焼け野原となり、社会は極度に疲弊していました。義政は、この荒廃した世情と政治の混乱から逃れるように、精神的な安らぎと美の世界を求めます。そうした中で花開いたのが、簡素なものの中に美を見出す「わび・さび」を基調とする「東山文化」でした。
銀閣寺は、まさにこの東山文化の精神性を体現する象徴的な建築物です。きらびやかな装飾を排し、自然と調和する静かで落ち着いた美しさを追求しました。義政は、自らが理想とする美の世界を創造するため、この東山の地に壮大な山荘を築き始めたのです。
いつ完成し何年かかったのか
「銀閣はいつ建てられたか」という問いに対して、多くの場面で「1482年」という年号が使われますが、これはプロジェクト全体の始まりの年であり、少し補足が必要です。
より正確な時の流れを追うと、1482年(文明14年)は、足利義政が銀閣寺の母体となる山荘「東山殿」全体の造営に着手した年です。義政が生活の拠点とした常御所や、現存し国宝に指定されている東求堂などが先に建てられました。そして、現在私たちが「銀閣」として親しんでいる二層の楼閣建築、観音殿そのものが完成したのは、それから7年後の1489年(長享3年)のことでした。
つまり、山荘全体の構想から象徴的な建物である銀閣の完成までには、少なくとも7年の歳月が費やされたことになります。しかし、義政はこの東山殿の完全な完成を見ることなく、銀閣が完成した翌年の1490年にこの世を去りました。彼の死後、その遺志を継いで広大な東山殿は禅寺に改められます。義政の菩提を弔うため、彼の法号「慈照院」にちなんで「東山慈照寺」と名付けられました。これが、現在の銀閣寺の始まりです。
建てられた目的をわかりやすく解説
銀閣寺が建てられた第一の目的は、足利義政が激動な政治の世界から退いた後の、穏やかな隠居生活を送るための山荘、すなわち究極のプライベート空間を築くことでした。
当時の京都は応仁の乱の傷跡が生々しく、多くの民が日々の生活に苦しんでいました。そうした社会情勢の中、義政は復興よりも自身の美意識と世界観を具現化する空間作りに莫大な費用と情熱を注ぎ込んだのです。このことから、彼は時に「現実逃避した将軍」と評されることもあります。
しかし、この山荘「東山殿」は、単なる豪華な住居ではありませんでした。義政が理想とした「わび・さび」の精神に基づき、後の日本建築の基本となる書院造の原型とされる「同仁斎」を持つ東求堂などを配し、当代一流の文化人や芸術家たちを招きました。彼らはここで身分の垣根を越えて交流し、茶の湯、華道、水墨画、能といった芸術活動に没頭しました。
つまり、この場所は日本の文化が洗練された一大拠点、いわば「文化サロン」としての役割を担っていました。政治的指導者としてよりも、芸術の偉大なパトロンとしての生き方を選んだ義政の精神性こそが、この銀閣寺を建てる真の目的の根底にあったと考えられます。
銀閣いつ建てられたかが分かる歴史の豆知識
歴史を簡単におさらいしよう
銀閣寺が今日に至るまでの歩みは、一人の将軍の美意識から始まり、幾多の時代の荒波を乗り越えてきた壮大な物語です。その歴史は、足利義政が東山に隠居のための山荘を建てようと決意したことから始まります。
1482年に山荘「東山殿」の建設が開始され、翌1483年には義政の生活の中心であった常御所が完成し、彼はここに移り住みました。その後、池泉回遊式の美しい庭園や、書院造の原点とされる東求堂などが次々と建てられていきます。そして、義政が亡くなる前年の1489年に、この山荘の象徴である観音殿、すなわち「銀閣」が上棟されました。
1490年に義政がこの世を去ると、彼の遺言に従い、この広大な山荘は臨済宗相国寺派の禅寺に改められます。義政の法号「慈照院」にちなんで「慈照寺」と名付けられました。これが、銀閣寺の正式名称となります。
しかし、その後の道のりは平坦ではありませんでした。戦国時代の戦乱や、江戸時代に入ってからの財政的な困窮により、寺の維持が困難になり一時はかなり荒廃しました。それでも、江戸中期以降、多くの人々の尽力と手厚い保護を受けて再興され、その美しい姿を取り戻します。
近代に入り、その比類なき文化的価値が改めて見直されることになります。1952年には、庭園が歴史的価値と芸術的価値の両面から極めて重要であるとして「特別史跡及び特別名勝」に、そして観音殿(銀閣)と東求堂が国宝に指定されました。さらにその評価は国際的なものとなり、1994年には「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして、ユネスコの世界文化遺産に登録され、今日に至っています。
参考資料:UNESCO World Heritage Convention “Historic Monuments of Ancient Kyoto”
豆知識①「金閣寺とどっちが先にできた?」
京都を代表する二つの楼閣、金閣寺と銀閣寺。どちらが先に建てられたのかは、多くの人が一度は抱く疑問ではないでしょうか。その答えと背景を知ることで、室町時代の文化の奥深さに触れることができます。
結論から言うと、金閣寺の方が銀閣寺よりも約85年も先に建てられました。両者は、室町幕府の全盛期を築いた祖父と、乱世に生きた孫という関係にある将軍によって創建されており、それぞれの時代の空気と個性が色濃く反映されています。
比較項目 | 金閣(鹿苑寺) | 銀閣(慈照寺) |
創建者 | 足利義満(3代将運) | 足利義政(8代将運) |
関係性 | 祖父 | 孫 |
創建時期 | 1397年(応永4年)頃 | 1482年(文明14年)頃 |
文化 | 北山文化 | 東山文化 |
特徴 | 豪華絢爛、公家文化の影響 | わびさび、簡素、武家文化の影響 |
祖父である足利義満が建てた金閣は、文字通り金箔で覆われた豪華絢爛な建物です。これは、公家文化の優雅さと武家文化の力強さが融合した、当時の華やかな「北山文化」を象徴しています。義満自身が非常に強力な政治力を持っていたことも、その壮麗な建築に表れています。
一方、孫の義政が生きた時代は、応仁の乱後の混乱期でした。義政は政治から距離を置き、簡素なものの中に美を見出す「わびさび」の精神性を追求しました。その美意識が結晶したのが、落ち着いた佇まいを持つ銀閣であり、「東山文化」の代表的建築です。二つの寺院は、祖父と孫の美意識や時代の空気感の違いを色濃く反映しており、比較してみることで室町時代の文化の移り変わりをより深く感じ取ることができます。
豆知識②「なぜ銀箔が塗られていないのか?」
「銀閣」という優美な名前から、誰もが銀色に輝く建物を想像しますが、ご存じの通り、外壁に銀箔は一枚も貼られていません。創建から500年以上経った今でも、その理由については明確な答えがなく、いくつかの説が語り継がれています。
説①「幕府の財政難で貼れなかった説」
最も広く知られている、いわば「定説」です。当初は壮麗な銀箔の楼閣を建てる計画があったものの、応仁の乱をはじめとする長年の戦乱の影響で幕府の財政は極度に悪化していました。そのため、高価な銀箔を調達する資金が不足し、計画を断念せざるを得なかったという考え方です。民衆が苦しむ中で壮大な建築を進めた義政でしたが、最後の仕上げまでは手が回らなかったのかもしれません。
説②「未完成のままだった説」
この説は、財政難説とも関連しますが、義政の死に焦点を当てたものです。足利義政は銀閣の完成を見届けた翌年に亡くなりました。そのため、本当は銀箔を貼る予定だったものの、義政の死によって計画そのものが中断してしまい、木材のままの「未完成」の状態で現在に至るという説です。もし義政がもう少し長生きしていれば、私たちは銀色に輝く銀閣を見ていた可能性があります。
説③「当初から貼る予定はなかった説」
近年、多くの専門家から有力視されているのがこの説です。そもそも「銀閣」という名称は、きらびやかな金閣に対比させて後世の人々が付けた通称に過ぎず、義政自身が銀箔を貼ることを意図していなかった、という考え方です。
その根拠として、義政が追求した「わびさび」の美意識が挙げられます。簡素で静寂なものの中にこそ真の美しさがあるとする禅宗の思想に基づけば、華美な銀箔はむしろ不要です。漆塗りの黒い木材が月光に照らされて銀色に鈍く輝く様子、あるいは、時を経て風化した木材そのものの質感をこそ、義政は美しいと感じたのではないでしょうか。
どの説が真実なのか、思いを馳せながら静かに佇む銀閣を眺めるのも、この場所を訪れる際の大きな楽しみ方の一つと言えるでしょう。
【まとめ】結局、銀閣いつ建てられたの?
- 銀閣寺の創建を命じたのは室町幕府の8代将軍、足利義政です
- 創建が始まった時代は15世紀後半の室町時代中期にあたります
- この時代は「東山文化」と呼ばれるわびさびを重んじる文化が栄えました
- 銀閣寺は東山文化を代表する建築物として知られています
- 山荘「東山殿」全体の工事が始まったのは1482年(文明14年)です
- この1482年という年が、銀閣寺創建の年としてよく引用されます
- しかし、銀閣(観音殿)そのものが完成したのは1489年(長享3年)です
- つまり、全体の着工から銀閣の完成までは少なくとも7年かかりました
- 足利義政は銀閣寺の完成を見ることなく1490年に亡くなりました
- 義政の死後、山荘は禅寺となり「慈照寺」という正式名称になりました
- 金閣寺は祖父の足利義満によって銀閣寺よりも約85年早く建てられました
- 銀閣に銀箔が貼られていない理由は財政難説や未完成説など諸説あります
- 近年では当初から銀箔を貼る計画はなかったという説が有力視されています
- 銀閣寺は単なる住居ではなく、文化サロンとしての目的も持っていました
- 1994年にユネスコの世界文化遺産に登録され、今日に至っています