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金閣寺いつ建てられた?建立の理由から放火事件の真相まで

きらびやかに輝くその姿で、京都だけでなく日本を象徴する存在として知られる金閣寺。多くの人がその美しさに心を奪われますが、その輝きの裏には壮大で波乱に満ちた歴史が隠されています。

この記事では、金閣寺はそもそもいつ建てられたのか、そして建てた人は誰なのかという基本的な情報から、なぜ建てられたのかという建立の目的、壮大な歴史の中で火事はいつ起き、誰が放火したのかという悲劇、そして焼失からの再建はいつ行われたのかという再生の物語まで、深く掘り下げていきます。さらに、いつから金に輝くようになり、その輝きを保つための修理はいつ行われているのか、また、いつ世界遺産に登録されたのかという現代的な価値、そして拝観に必要な入場料まで、あなたの知りたい情報を網羅的に解説します。

この記事で分かること
  • 金閣寺が建立された背景とその壮大な歴史
  • 焼失と再建という大きな転換点の詳細
  • 現在の輝きを維持するための継続的な取り組み
  • 拝観前に知っておくべき基本情報と見どころ
目次

金閣がいつ建てられたかと輝かしい歴史

金閣はいつ、誰が、なぜ建てられたのか

金閣寺の荘厳な美しさを理解するためには、まずその誕生の背景に目を向けることが不可欠です。この歴史的建造物は、室町幕府の最高権力者であった三代将軍、足利義満によって、1397年(応永4年)にその建立が開始されました。当時、義満は南北に分かれていた朝廷の合一を成し遂げ、日明貿易を始めるなど、政治的・経済的にまさに絶頂期にありました。

金閣が建てられた土地は、もともと鎌倉時代の有力な公家であった西園寺公経(さいおんじきんつね)の別荘「北山第(きたやまだい)」があった場所です。風光明媚なこの地を義満が譲り受け、自身の権勢を象徴する新たな政治・文化の中心地「北山殿(きたやまどの)」として大規模に造営し直しました。その中心に据えられたのが、仏舎利(お釈迦様の遺骨)を安置するための舎利殿、すなわち金閣です。

義満がこれほどまでに壮麗な建物を築いた目的は、一つではありません。まず、国内外に自身の絶大な権力と富を見せつけるという政治的な意図が挙げられます。金箔を惜しみなく用いたその姿は、見る者を圧倒し、将軍の権威を不動のものとする象徴でした。

同時に、義満の深い信仰心が反映された、この世における極楽浄土の再現という目的も重要です。金閣が水面に姿を映す鏡湖池(きょうこち)や、そこに浮かぶ葦原島、鶴島、亀島といった島々の配置は、仏教の浄土思想に基づいて設計されています。これは、金閣が単なる豪華な邸宅ではなく、庭園全体で一つの宗教的な世界観を表現していることを示しています。

これらの建築や庭園に込められた思想は、伝統的な公家文化の優雅さと、禅宗の影響を受けた武家文化の簡素剛健さが融合した、この時代特有の「北山文化」の集大成と言えます。金閣は、足利義満という一人の権力者の夢と野心、そして信仰心が結晶した、比類なき芸術作品なのです。

建立から世界遺産登録までの歴史

金閣を建立した足利義満は、この北山殿から天下に采配を振るいましたが、1408年(応永15年)にその生涯を閉じます。彼の死後、その遺言により広大な北山殿は禅寺へと改められました。これが金閣寺の始まりであり、義満の法号「鹿苑院殿(ろくおんいんでん)」にちなんで「鹿苑寺(ろくおんじ)」と正式に名付けられました。この「鹿苑」とは、お釈迦様が初めて説法を行った聖地「鹿野苑(ろくやおん)」に由来しており、禅寺としての深い意味が込められています。

室町時代を通じて、鹿苑寺は禅宗の中心の一つとして栄えました。しかし、1,467年に始まる応仁の乱では、その地理的な位置から西軍の主要な陣地となり、激しい戦乱に巻き込まれます。この時、金閣は奇跡的に焼失を免れましたが、残念ながら周囲の多くの壮麗な建造物は灰燼に帰しました。

その後、荒廃した時代を経て、江戸時代に入ると再び復興の機運が高まります。特に、時の住職であった鳳林承章(ほうりんじょうしょう)や、金閣を深く愛したとされる後水尾上皇の支援により、庭園の整備などが進められ、往時の景観が取り戻されていきました。

近代に入ってもその歴史的・芸術的価値は高く評価され、1897年(明治30年)には、今日の文化財保護法の前身である古社寺保存法に基づき、「特別保護建造物」として国の保護を受けることになります。

そして、その価値が国際的にも認められる決定的な節目が、1994年(平成6年)12月に訪れます。清水寺や二条城など、京都を代表する他の16の寺社・城郭と共に、「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。これにより、金閣寺は日本の至宝であると同時に、全人類が共有し、未来へ守り伝えていくべき世界的な遺産として、その地位を確立したのです。

参考資料:文化庁『国指定文化財等データベース』

拝観前に知りたい金閣の入場料

金閣寺への訪問を計画される際に、事前に確認しておきたい拝観に関する詳細な情報を以下にまとめました。スムーズな参拝のために、ぜひお役立てください。

項目詳細
拝観時間午前9:00 ~ 午後5:00
拝観料大人(高校生以上):500円 小・中学生:300円
駐車場あり(有料) ・乗用車:最初の60分 500円、以降30分ごと 200円 ・バス・タクシー専用駐車場も完備
備考・年中無休で拝観が可能です ・団体割引(30名以上)や学校団体の料金設定があります ・車椅子での拝観も可能ですが、一部砂利道や段差があるため介助者の方の同伴をお勧めします ・特別拝観などが実施される際は、時間や料金が変更される場合があります

※上記は2025年9月現在の情報です。ご訪問の際は、念のため金閣寺(鹿苑寺)公式サイトで最新の情報をご確認ください。

金閣寺を訪れた多くの人が心に残ると語るのが、そのユニークな拝観券です。これは単なるチケットではなく、「金閣舎利殿御守護」と書かれたお札の形式になっています。参拝者の家内安全や開運招福を願うものであり、旅の記念として大切に持ち帰ることができる、心のこもった配慮と言えるでしょう。

京都市内からのアクセスは、公共交通機関の利用が便利です。特にバスは路線が豊富で、JR京都駅の烏丸中央口バスターミナルからは、京都市バスの101号系統(急行)または205号系統に乗車し、「金閣寺道」バス停で下車するのが最も分かりやすいルートです。バス停からは徒歩約3分で到着します。桜や紅葉のシーズン中は周辺道路が大変混雑するため、時間に余裕を持った行動が大切です。バス以外の方法としては、JR円町駅や地下鉄北大路駅などからタクシーを利用するルートもあります。

金閣いつ建てられたかと焼失後の輝きを取り戻す現在

火事はいつ起きた?誰が放火したのか

創建から550年以上にわたり、応仁の乱をはじめとする数多の戦火を奇跡的に免れてきた室町時代の至宝、金閣。しかし、その輝かしい歴史は、1950年(昭和25年)7月2日未明、一本の炎によって突如として終焉を迎えました。これは不慮の事故(失火)ではなく、意図的な放火によるものでした。国民的財産の焼失というこの悲劇は、戦後の復興期にあった日本社会に計り知れない衝撃と深い喪失感を与えました。

犯人は、当時21歳だった鹿苑寺の徒弟、すなわち見習い僧侶であった林承賢です。彼は犯行後、寺の裏手にある左大文字山で睡眠薬と短刀を用いて自決を図りましたが、一命を取り留め、捜査員によって身柄を確保されました。彼の逮捕により、事件は解決へと向かいます。

この放火事件により、舎利殿(金閣)は骨組みだけを残して全焼。創建当時の姿を伝える唯一無二の国宝建築は、一夜にして灰燼に帰しました。失われたのは建物だけではありません。内部に安置されていた、足利義満本人坐像(当時国宝)や、仏師・運慶の作と伝えられた岩屋観音像、阿弥陀如来像など、創建以来守り伝えられてきた数々の貴重な仏像や文化財も、そのほとんどが永遠に失われてしまったのです。

彼の犯行動機については、裁判の過程で徐々に明らかにされていきました。貧しい母子家庭での生い立ち、生まれつきの吃音に対する根深いコンプレックス、そして仏門に入ってもなお拭えなかった世の中への疎外感。そうした複雑な内面の苦悩が、完全無欠な美の象徴である金閣に向けられたとされています。美しすぎるものへの嫉妬と、それを独占する社会への反発が入り混じった、愛憎半ばする歪んだ感情が、彼を凶行に駆り立てたと考えられています。

この衝撃的な事件は、文化財保護の重要性を国民に改めて強く認識させるきっかけとなりました。そして、犯人の内面に潜む人間の普遍的な闇と美への葛藤は、多くの文化人にインスピレーションを与え、作家・三島由紀夫の不朽の名作『金閣寺』や、水上勉の『五番町夕霧楼』といった、日本文学史に残る傑作を生み出す土壌ともなったのです。

再建はいつ?いつから金に輝くのか

国宝焼失という未曾有の事態に、日本中が悲しみに暮れました。しかし、その悲しみは、やがて金閣の再建を願う力強い国民的世論へと変わっていきます。国内外から多くの篤志家による寄付が集まり、京都市や地元財界も一体となって支援に乗り出しました。その結果、事件からわずか5年後という驚くべき早さで、1955年(昭和30年)10月10日、現在の金閣は見事にその姿を現したのです。

この迅速かつ忠実な再建が可能であった背景には、一つの幸運がありました。それは、明治時代後期に金閣の解体修理が行われた際に作成された、極めて詳細な図面や写真が残されていたことです。建築史家の村田治郎博士の指揮のもと、最高の技術を持つ宮大工たちが集結し、これらの貴重な資料を基に、焼失前の姿を寸分違わず現代に蘇らせました。

では、金閣が「いつから金に輝くのか」という問いについては、足利義満による創建当初から、その名の通り金箔で覆われていたと考えられています。舎利殿(金閣)は三層構造になっており、各層がそれぞれ全く異なる時代の建築様式で造られている点が、他に類を見ない最大の特徴です。

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名称建築様式特徴と象徴
初層法水院(ほっすいいん)寝殿造平安時代の貴族住宅の様式。壁や仕切りが少なく開放的な空間で、義満が公家たちと交流した社交の場を象徴しています。
二層潮音洞(ちょうおんどう)武家造鎌倉時代の武家住宅の様式。観音菩薩を祀る仏堂であり、武家の棟梁としての義満の側面を象徴しています。
三層究竟頂(くっきょうちょう)禅宗仏殿造中国・唐の様式を取り入れた禅宗寺院の仏殿様式。仏舎利を安置し、義満個人の瞑想空間であったとも考えられ、仏教世界を象徴しています。

このように、一つの建物の中に「公家」「武家」「仏教」という三つの異なる世界観を階層的に融合させることで、足利義満はそれら全てを自身が統べる絶対的な君主であるという、壮大な政治思想を表現したと解釈されています。金閣は、ただ美しいだけでなく、義満の野心と世界観が凝縮された、類い稀な建築物なのです。

金箔はいつ修理されている?

現在の金閣が見せる息をのむような黄金の輝きは、一度の再建だけで永遠に保たれるわけではありません。風雨や紫外線に晒されることで、金箔やその下地である漆は少しずつ劣化していきます。その美しさを未来永劫にわたって維持し、後世に伝えていくため、定期的に大規模な修復作業が行われています。

中でも特筆すべきは、1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)にかけて、約1年半の歳月をかけて行われた「昭和の大修理」です。この国家的なプロジェクトでは、再建から約30年を経て傷みが目立ってきた漆の塗り直しと、金箔の全面的な貼り替えが行われました。使用された金箔は、石川県金沢産の最高品質のもので、その数はおよそ20万枚、総重量は約20kgにも達しました。さらに、通常よりも厚い「五倍箔」と呼ばれる特製の金箔が用いられ、その総工費は当時の金額で約7億4千万円にものぼりました。この大修理により、金閣は創建当時に限りなく近い、深みのあるまばゆい輝きを取り戻したのです。

その後も、文化財としての価値を損なわないよう、綿密な計画のもとで修復は続けられています。2002年(平成14年)から2003年(平成15年)にかけては、三層部分の屋根の葺き替えと、内部の天井画の修復作業が実施されました。

そして、記憶に新しい大規模な工事が、2019年(令和元年)から2020年(令和2年)にかけて行われた屋根の葺き替え工事です。この工事では、屋根の材料である椹(さわら)の薄い板を、一枚一枚丁寧に竹釘で打ち付けながら重ねていく「杮葺(こけらぶき)」という伝統的な工法が用いられました。屋根の頂上で四方を睥睨する鳳凰も、一度取り外されて金箔の補修などが行われ、再びその輝きを増して元の場所へと戻されています。

このように、金閣の荘厳な美しさは、建立者である足利義満の夢と、それを守り伝えようとする現代の職人たちの情熱と最高の技術によって、今この瞬間も支えられているのです。

金閣いつ建てられたかの知識を深めて訪れたい金閣寺

  • 金閣寺は室町幕府3代将軍の足利義満によって建立された
  • 建立が始まったのは1397年で北山文化を象徴する建築物
  • 正式名称は鹿苑寺で舎利殿が金閣として一般に知られる
  • 建立の目的は義満の権威の誇示と極楽浄土の再現とされる
  • 創建以来の建物は1950年の放火事件によって全焼した
  • 放火の犯人は当時21歳だった寺の見習い僧侶であった
  • 現在の建物は国内外の支援により1955年に再建されたもの
  • 舎利殿は三層構造で各層が異なる建築様式で造られている
  • 一層は寝殿造、二層は武家造、三層は禅宗仏殿造となっている
  • これら様式の融合は義満の統治のあり方を象徴するとされる
  • 1987年の大修理では約20万枚もの新しい金箔が使用された
  • 金箔の輝きを維持するため定期的に大規模な修復が行われる
  • 2020年には屋根の葺き替え工事が完了し美しさを取り戻した
  • 1994年に古都京都の文化財の一つとして世界遺産に登録された
  • 拝観券がお札の形をしているのも金閣寺のユニークな特徴

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