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金森宗和が設計した夕佳亭。金閣寺の茶室、その魅力を解説

金閣寺を訪れた際、順路の最後にある茶室「夕佳亭」が気になった方も多いのではないでしょうか。この記事では、その夕佳亭の正しい読み方や美しい名前の由来、そして茶人・金森宗和が手掛けた歴史的背景を詳しく解説します。さらに、通常は非公開となっている内部の建築的な特徴、特に有名な南天の床柱や萩の違い棚、そして貴人榻といった、金森宗和のこだわりが詰まった見どころまで、その奥深い魅力を余すところなくご紹介します。

この記事で分かること
  • 夕佳亭の正しい読み方と名前の由来がわかる
  • 誰が何のために建てたのか、その歴史的背景を理解できる
  • 南天の床柱など、内部の建築的な特徴を知ることができる
  • 金閣寺の拝観順路における夕佳亭の場所がわかる
目次

夕佳亭とは?金閣寺の茶室を解説

正しい読み方と名前の由来

金閣寺の境内で「夕佳亭」という標識を見かけた際、まずその読み方に迷われるかもしれません。この風流な名前は「せっかてい」と読みます。「ゆうかてい」と読んでしまうこともありますが、正式には「せっかてい」です。

この名前には、二重の深い意味が込められています。

一つは、文化的な背景として、中国・東晋時代の著名な詩人、陶淵明(とうえんめい)が詠んだ「飲酒二十首」という連作詩の中の一節に基づいているとされています。その詩には「採菊東籬下 悠然見南山 山気日夕佳 飛鳥相与還」という一節があります。

書き下し文にすると「菊を採る東籬(とうり)の下、悠然として南山(なんざん)を見る。山気(さんき)は日夕(にっせき)に佳(よ)く、飛鳥(ひちょう)は相与(あいとも)に還(かえ)る。」となります。この「山気日夕佳」という部分、すなわち「夕暮れ時の山の風情(気配)は実に素晴らしい」という、自然と一体となる詩情が、この茶室の名前の教養的な背景となっています。

そしてもう一つの、より直接的で場所の特性に基づいた理由が、この茶室が建てられた場所からの眺望です。夕佳亭は金閣寺の境内でも小高い丘の上に位置しており、そこから眺める「夕日に映える金閣(舎利殿)が殊(こと)に佳(よ)い」と賞賛されたことから、この名が付けられたと伝えられています。

つまり、中国の古典詩に由来する深い教養と、金閣寺の最も美しい瞬間(夕景)を捉えるという実際の景観。この二つの「夕暮れの美」が重ね合わされて「夕佳亭」と命名されたのです。この名前からも、夕佳亭が単なる茶室としてだけでなく、金閣寺の景観を最もよく味わうために設計された、特別な空間であったことがうかがえます。

金森宗和が創建した歴史的背景

夕佳亭の創建には、江戸時代初期(慶長年間、1596年~1615年頃)を代表する大茶人、金森宗和(かなもり そうわ)が深く関わっています。

金森宗和は、飛騨高山藩主の家系に生まれた武士(武家)でありながら、家督を弟に譲り、自らは茶の湯の道を選んだという経歴の持ち主です。千利休の作法を学びつつも、公家文化の優美さや王朝文化の「みやび」を取り入れ、「姫宗和(ひめそうわ)」とも呼ばれる繊細で優美、かつ華やかな独自の茶風を確立しました。

夕佳亭の創建のきっかけは、当時の金閣寺(鹿苑寺)の住職であった鳳林承章(ほうりん じょうしょう)が、当代随一の文化人であった後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)をお迎えし、お茶を献上するためであったと伝えられています。その大切な席の「好み」(茶室の設計や意匠、道具組の選定など、茶人の美意識の表明)を、宗和に依頼したのです。

夕佳亭は、この宗和の「好み」が随所に反映された数寄屋造り(すきやづくり)の茶室として、高い評価を得ました。数寄屋造りとは、書院造のような厳格な決まり事(格式)から離れ、自由な発想や自然の素材感を活かした、軽やかで洗練された建築様式です。宗和の優美な茶風にふさわしい様式と言えます。

ただし、ここで非常に重要な点があります。金森宗和が手掛けた創建当時のオリジナルの建物は、明治時代初期(1871年頃)に惜しくも焼失してしまいました。

現在の私たちが目にしている建物は、その後の1874年(明治7年)に再建されたものです。しかし、この再建は全くの想像で行われたわけではありません。幸いにも、創建当時の意匠を詳細に記した「起絵図(おこしえず)」と呼ばれる立体的な設計図が残されていました。この貴重な資料に基づき、宗和の意匠をできる限り忠実に現代に伝えています。

参考資料:文化遺産オンライン『金閣寺夕佳亭起絵図』

金閣寺における場所とアクセス

夕佳亭は、金閣寺(鹿苑寺)の境内、その北東のエリア、舎利殿(金閣)がある鏡湖池からは少し離れた小高い場所に位置しています。

金閣寺の一般的な拝観順路は一方通行になっていますが、そのルートに沿って進むと、まず鏡湖池に映る舎利殿(金閣)というハイライトを鑑賞し、その後、陸舟の松や龍門の滝、安民沢などを巡ります。そして、順路の最後の方、出口(不動釜茶所)が近くなってきたエリアで、夕佳亭にたどり着きます。

具体的には、お茶席や「不動堂」の手前にあり、そこへ至るには石段を少し登る必要があります。

この「小高い丘の上」「石段を登る」という立地が、夕佳亭の性格を決定づけています。第一に、名前の由来である「夕日に映える金閣」を眺めるためには、物理的に高い場所が必要でした。第二に、石段を登るという行為は、それまでの観光客で賑わう主要な拝観ルートから物理的・心理的に距離を置き、静かな茶の湯の空間(結界)へと入るための、巧みな演出にもなっています。

金閣寺の華やかな舎利殿を見た後の、静かで落ち着いた佇まいの数寄屋造り。この対比を味わうことも、金閣寺拝観の大きな魅力の一つです。順路の最後に位置しているため、見逃すことは少ないですが、ぜひ足を止めて、その歴史的背景や立地の意味を感じ取ってみてください。

夕佳亭の見どころと建築的特徴

内部の特徴「南天の床柱と萩の違い棚」

夕佳亭は現在、内部が一般公開されていないため、その意匠の素晴らしさを直接目にすることは難しいですが、文献や資料からは金森宗和の独創的な美意識が細部にまで反映されていることがわかります。特に、茶室の格式や常識にとらわれない、二つの独創的な部材が有名です。

南天の床柱

最大の見どころとして知られるのが、茶室の精神的な中心である床の間に用いられた「南天の床柱」です。

茶室の床柱は、その空間の「顔」とも言える重要な部材です。通常、格式ある茶室では北山杉の磨き丸太や、松の面皮柱(木の四隅の皮を意図的に残した柱)など、特定の素材が好んで用いられます。しかし、宗和が選んだのは「南天」でした。

南天は常緑低木であり、通常は庭木として植えられるもので、柱として使用できるほど太く、まっすぐに育つこと自体が極めて稀です。この「素材の稀少性」に加え、宗和は「南天」という音(おん)が「難転(なんてん)」、すなわち「難を転じて福となす」に通じる縁起の良さに着目しました。

これは、茶室に迎える客(特に後水尾上皇)への深い配慮と、無事を祈る「もてなしの心」の表れです。伝統的な茶室のルール(お約束)よりも、縁起の良さや素材の面白さ(稀少性)を優先する宗和の既成概念にとらわれない遊び心と、深い教養が凝縮された一本の柱と言えます。

萩の違い棚

南天の床柱と並び称されるのが、床の間の脇(床脇)に設けられた「萩の違い棚(はぎのちがいだな)」です。

違い棚自体は書院造などにも見られる伝統的なものですが、夕佳亭のそれは極めて独創的です。素材に萩の木を用い、その細い枝先と太い根元の方を交互に組み合わせ、意図的に不規則な三角形の空間を作り出しています。

これは、当時の主流であった均整の取れた美(シンメトリー)とは対極にある、数寄屋造り特有の「崩し」の美学を体現しています。「崩し」とは、完璧な形式をあえて崩すことで、自然な風情や非対称の美しさを楽しむ日本的な美意識です。宗和は、萩という繊細な素材の自然な形状をそのまま活かすことで、窮屈な決まり事から解放された、軽やかで風流な空間を演出しました。

間取りの構成

夕佳亭の建築的特徴は、その間取りにも明確に表れています。茅葺屋根(かやぶきやね)の母屋は、主に以下の空間で構成されています。

  1. 三畳敷きの茶室(主室)
    • 南天の床柱や萩の違い棚がある、中心的な空間です。
  2. 二畳の上段の間(鳳棲楼)
    • 主室に接続された、一段高くなった二畳の部屋です。この「鳳棲楼(ほうせいろう)」という名は「鳳(おおとり=高貴な人)が棲まう楼閣」を意味し、明らかに主賓である後水尾上皇のために設けられた、格の高い空間であったことを示しています。
  3. 土間と竈(かまど)
    • 茶室の入り口付近には土間があり、そこには火をおこすための竈(かまど)が備え付けられています。

この「竈」の存在が、夕佳亭の性格を決定づけています。厳格な作法に則って茶の湯を行うだけの精神的な「茶室(さしつ)」であると同時に、食事の準備も可能な実用性を備えた「茶屋(ちゃや)」としての機能も持っていたのです。ここでは茶だけでなく、酒宴や食事といった、よりくつろいだ「遊興」や「物見(景色を楽しむこと)」も行われたと考えられます。

こうした間取りの詳細は、文化庁のデータベースで公開されている「金閣寺夕佳亭起絵図(きんかくじせっかていおこしえず)」といった貴重な資料からも伺い知ることができます。

参考資料:文化遺産オンライン『金閣寺夕佳亭起絵図』

金森宗和好みの貴人榻とは

夕佳亭の見どころは、茶室の建物本体だけではありません。そのそばの地面に、何気なく置かれた一つの石にも、宗和の美意識が込められています。それが「貴人榻(きじんとう)」と呼ばれる石の腰掛けです。

「榻(とう)」とは、現代ではあまり使われませんが、「こしかけ」や「椅子」を意味する漢字です。その名の通り、これは「高貴な身分の人(貴人)」が腰掛けるための石(ベンチ)とされています。

もちろん、この「貴人」とは、夕佳亭が迎えるために造られた後水尾上皇を指していると考えられます。茶室に入る前のひととき、あるいは茶事の合間に、上皇がこの石に腰掛け、眼下の景色や金閣を眺めたのかもしれません。そうした歴史的な情景を想像させる、象徴的な設備の一つです。

この貴人榻は、一説には室町幕府の建物から移設された古い石材であるとも伝えられています。もしこの伝承が事実であれば、宗和は単に新しい腰掛けを設置したのではなく、古い歴史と権威を持つ石をこの場所にあえて「見立て」て配置したことになります。

茶の湯の世界では、ありふれた道具や自然の石に新たな価値や美を見出す「見立て」という文化が重視されます。金森宗和がどのような意図でこの石を選び、この場所に据えたのか。その深い美意識や歴史観に思いを馳せながら眺めるのも、夕佳亭を鑑賞する上での大きな楽しみ方です。

夕佳亭の魅力を再発見

  • 夕佳亭は「せっかてい」と読む、金閣寺境内にある茶室
  • 夕日に映える金閣が特に佳(よ)いことから名付けられた
  • 名前の由来は中国の詩人、陶淵明の詩の一節でもある
  • 創建は江戸時代初期の慶長年間と伝えられている
  • 金閣寺の住職が後水尾上皇を迎えるために建てたとされる
  • 設計(好み)は江戸時代の著名な茶人、金森宗和
  • 金森宗和は優美な「姫宗和」と呼ばれる茶風で知られる
  • 現在の建物は1874年(明治7年)に再建されたもの
  • 創建当時の建物は明治時代初期に焼失している
  • 金閣寺の拝観順路の最後、不動堂の近くの高台にある
  • 最大の見どころは珍しい「南天の床柱」
  • 南天は「難を転ずる」縁起物として採用された
  • 独創的な意匠の「萩の違い棚」も有名
  • 内部は三畳の茶室と二畳の上段の間(鳳棲楼)で構成
  • 夕佳亭のそばには「貴人榻(きじんとう)」という石の腰掛けがある

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