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田村堂の由来を深掘り!坂上田村麻呂と二つの場所の謎

「田村堂」を調べていると、京都の清水寺だけでなく、長野県の松本市にも同じ名前の場所があることに気づきませんか?この田村堂の正しい読み方から、清水寺の田村堂とは何なのか、そして一体誰を祀ってるのかといった基本的な情報まで、その歴史を紐解くと、平安時代の武人である坂上田村麻呂と清水寺の関係がおのずと見えてきます。

さらに、清水寺 開山堂という別名や、松本市 中山という具体的な地名、さらには宇都宮市にある柔道の道場まで、その名は多岐にわたります。この記事では、点在する情報を整理し、それぞれの「田村堂」が持つ意味と背景を一つひとつ丁寧に解説するとともに、京都 坂上田村麻呂 ゆかりの地についても触れていきます。

この記事で分かること
  • 京都と松本にある田村堂の具体的な違い
  • 坂上田村麻呂と田村堂の深い歴史的関係
  • それぞれの田村堂に祀られている人物と由来
  • 合わせて訪れたい京都の関連スポット
目次

「田村堂」とは?2つの歴史的建造物を解説

基本的な読み方と意味

「田村堂」という言葉に初めて触れた際、まず気になるのはその読み方かもしれません。この名称は一般的に「たむらどう」と読みます。そして、その背後には日本の歴史における重要な人物の存在が深く関わっています。

この名称の由来は、主に平安時代初期に活躍した武官であり、征夷大将軍として名高い「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」です。彼は、当時の朝廷にとって大きな課題であった東北地方の蝦夷(えみし)を平定したことで知られ、その武勇は後世にまで語り継がれました。田村堂とは、この坂上田村麻呂の功績を称えたり、彼自身やその一族を祀ったりするために建てられたお堂(仏像などを安置する建物)を指す場合がほとんどです。

「田村堂」という名称は、特定の寺院の境内にあるお堂を指すことが最も広く知られていますが、それ以外にも地名や施設の名前として使われることもあります。一般的にこの言葉を耳にして多くの方が思い浮かべるのは、国際的な観光地である京都・清水寺のお堂か、あるいは長野県松本市の静かな地に佇むお堂のどちらかでしょう。これらは建立された場所も背景も異なりますが、どちらも坂上田村麻呂という一人の傑出した人物に深いゆかりを持つという共通点で結ばれています。

京都・清水寺と長野・松本市にある田村堂

「田村堂」という名称を持つ歴史的建造物の中で、特に象徴的な存在として知られるのが京都府京都市と長野県松本市にある二つのお堂です。どちらも坂上田村麻呂との関わりを伝えていますが、その建立の経緯や文化的価値、そして現在の姿は大きく異なります。なぜ遠く離れた二つの地に、同じ名のお堂が存在するのか。その答えの鍵は、坂上田村麻呂の活動範囲、すなわち都での華々しい活躍と、遠く東国へ向かった遠征の歴史にあります。

ここでは、それぞれの田村堂が持つ特徴や背景を、より詳しく比較しながら整理してみましょう。

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項目清水寺の田村堂 (開山堂)松本市の中山地区の田村堂
所在地京都府京都市東山区清水長野県松本市大字中山
建立1633年(寛永10年)に再建大同年間(806年~810年)と伝承
文化財指定国の重要文化財松本市重要文化財
特徴清水寺の創建者らを祀る。本堂北側に位置し、日本の伝統的な屋根形式である入母屋造(いりもやづくり)で、屋根は檜の皮を重ねた檜皮葺(ひわだぶき)という優美な様式。坂上田村麻呂が東征の際に建立したと伝わる。中山霊園に隣接し、地元住民で組織される「田村堂保存会」によって大切に維持管理されている。

参考資料:文化庁「国指定文化財等データベース」

このように、京都の田村堂は、世界遺産でもある清水寺の伽藍を構成する重要文化財の一つとして、創建の歴史を今に伝える荘厳な役割を担っています。国内外から訪れる多くの参拝者の目に触れ、日本の仏教建築の美しさを象徴する存在です。

一方で、松本市の田村堂は、地域の歴史と伝説に深く根差した、より素朴で静かな佇まいを見せています。こちらは華やかな観光地の中にあるわけではありませんが、坂上田村麻呂の東征という壮大な歴史ロマンを背景に持ち、地域の人々の手によって今日まで大切に守り継がれてきた、まさに地域の宝と言えるでしょう。

全く異なる宇都宮の柔道修練田村堂

ここまで歴史的な建造物としての「田村堂」について解説してきましたが、インターネットで検索すると、もう一つ全く異なる施設が見つかることがあります。それは、栃木県宇都宮市に存在する「柔道修練田村堂」という名の柔道場です。

この施設についてこの記事で言及するのは、情報を探している方が混乱しないように、という配慮からです。こちらの「田村堂」は、これまで紹介してきた坂上田村麻呂ゆかりの歴史的建造物とは直接的な関係はありません。柔道という武道を通して、礼節を学び、心と身体を鍛錬することを目的とした道場であり、その名称の由来も歴史的な背景とは異なります。

このように、「田村堂」というキーワード一つをとっても、文脈によって指し示す対象が全く異なる場合があるのです。特にインターネットで情報を探す際には、自分がどの「田村堂」について知りたいのかを意識することで、より正確で有益な情報にたどり着きやすくなります。この記事では、主に歴史的建造物である京都と松本の二つの田村堂に焦点を当て、さらにその魅力を深く掘り下げていきます。

田村堂の歴史と坂上田村麻呂との深い関係

坂上田村麻呂と清水寺の創建、誰を祀ってる?

京都が誇る名刹、清水寺。その境内にある田村堂の歴史を深く理解するためには、寺院そのものの起源、すなわち坂上田村麻呂と清水寺の創建にまつわる物語を知ることが不可欠です。この物語は、単なる伝説を超え、田村堂が持つ意味そのものを私たちに教えてくれます。

清水寺創建の物語

清水寺の歴史は、今から1200年以上前の奈良時代末期、778年(宝亀9年)にまで遡ります。物語は、大和国(現在の奈良県)で修行を積んでいた賢心という僧侶、後の延鎮(えんちん)が不思議な夢を見るところから始まります。「木津川の北流をたどり、清泉の湧く地を求めよ」というお告げに従い、彼がたどり着いたのが、現在の清水寺がある音羽の滝でした。

そこで延鎮が出会ったのは、金色の水流のほとりで修行を続ける一人の修行者、行叡居士(ぎょうえいこじ)でした。行叡は200年以上もこの地で観音の化身として祈りを捧げていたとされ、延鎮の到来を予期していました。彼は延鎮に観音の教えを説き、「この霊木で観音像を彫り、この地を守ってほしい」と言い残して姿を消したと伝えられています。

その2年後の780年(宝亀11年)、この地に偶然足を踏み入れたのが、後に征夷大将軍となる坂上田村麻呂でした。彼は、妻である高子夫人の安産を祈願するため、薬になると信じられていた鹿の生き血を求めて音羽山に入りました。そこで鹿を射止めようとしたまさにその時、滝修行をしていた延鎮と出会います。延鎮は、観世音菩薩の功徳を説き、殺生の罪深さを田村麻呂に諭しました。

観音の教えに深く感銘を受けた田村麻呂は、これまでの行いを悔い、観音に深く帰依するようになります。そして、延鎮を支援するため、自らの邸宅を解体し、本尊である十一面千手観世音菩薩像を祀るための仏殿として寄進しました。これが清水寺の始まりとされています。

参考資料:清水寺 公式サイト「歴史」

田村堂に祀られている人物

このような創建の歴史的背景から、清水寺の田村堂は、寺院を開いた中心人物たちを顕彰し、祀るためのお堂、すなわち「開山堂(かいさんどう)」としての重要な役割を担っています。寺院の創設に貢献した人々を祀ることは、日本の仏教寺院において伝統的に行われてきました。田村堂には、この創建物語に登場する中心人物たちが祀られています。

  • 坂上田村麻呂
  • 高子(たかこ)夫人(田村麻呂の妻)
  • 行叡居士
  • 延鎮上人

このお堂が創建者である坂上田村麻呂の名を冠して「田村堂」と呼ばれているのは、彼の功績が極めて大きかったことの証左です。彼は朝廷屈指の武人として名を馳せただけでなく、仏教への深い帰依心を持ち、清水寺の発展に私財を投じて大きく貢献したのです。田村堂は、その信仰心と功績を後世に伝えるための、まさに記念碑的な建造物と言えるでしょう。

京都で巡る坂上田村麻呂ゆかりの地

清水寺の田村堂を訪れ、その歴史に触れたなら、京都市内に点在する他の坂上田村麻呂ゆかりの地へ足を延ばしてみることを強くおすすめします。彼の足跡を辿ることで、平安京という都の形成と、彼がいかに重要な人物であったかについての理解がさらに深まります。

将軍塚青龍殿

京都市街と周辺の山々を一望できる東山の山頂に位置する、絶景で知られる場所です。ここは、794年の平安京遷都に際し、桓武天皇が都の安泰と鎮護を祈願した場所とされています。その際、天皇の勅命を受けた坂上田村麻呂が、土で将軍の像を造り、甲冑を着せて塚に埋めたという伝説が残っています。国家の非常時にはこの塚が鳴動して異変を知らせると信じられており、田村麻呂が武運の神、そして都の守護者として崇敬されていたことがうかがえます。

坂上田村麻呂卿公園

清水寺からほど近い、京都市山科区に位置する閑静な公園です。この場所は、坂上田村麻呂の墓所であると伝えられています。公園内には墓碑が静かに佇んでおり、華やかな観光地の喧騒から離れ、平安時代を代表する偉大な武人を偲ぶことができます。歴史ファンにとっては、清水寺や将軍塚と合わせて訪れることで、田村麻呂という人物の生涯をより立体的に感じられる、非常に価値のあるスポットと言えるでしょう。

【まとめ】あなたの知りたい田村堂はどれ?

この記事では、「田村堂」という言葉が持つ複数の意味と、その背景にある歴史を解説しました。最後に、記事の重要なポイントをまとめます。

  • 「田村堂」の一般的な読み方は「たむらどう」です
  • 最も有名なのは京都の清水寺境内にあるお堂のことです
  • 長野県松本市の中山地区にも同名の歴史的なお堂があります
  • 清水寺の田村堂は国の重要文化財に指定されています
  • 松本市の田村堂は市の重要文化財として保護されています
  • 清水寺の創建には坂上田村麻呂が深く関わっています
  • 田村堂には坂上田村麻呂と高子夫人などが祀られています
  • 創建者らを祀ることから「開山堂」という別名も持ちます
  • 田村堂の建立には延鎮上人と行叡居士も関わっています
  • 松本市の田村堂は坂上田村麻呂の東征伝説に由来します
  • 宇都宮市には同名で柔道の道場が存在するので注意が必要です
  • 京都には坂上田村麻呂ゆかりの地が他にも点在しています
  • 将軍塚青龍殿は平安京の鎮護を願って造られたとされます
  • 山科区には坂上田村麻呂のお墓とされる場所があります
  • 検索する際はどの田村堂か意識すると情報が整理しやすいです

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