日本の神話と歴史の中で、ひときわ神秘的な輝きを放つ三種の神器。その一つである、本物 草薙の剣について、多くの方が様々な疑問を抱いています。この伝説の剣はそもそも実在しますか、という問いから、一体誰が作ったのか、そして今どこにありますかという場所に関する関心まで、その謎は尽きることがありません。また、天叢雲剣というもう一つの名前の由来や、記録から推測される剣の形、さらにはなぜ見てはいけないとされ、一般公開もされていないのか、その理由も気になるところです。熱田神宮に深く関わるこの神剣について、過去に剣を見た人はいるのか、中にはエリザベス女王が目撃者ではないかという説まで語られています。この記事では、これらの尽きない疑問に一つひとつ丁寧にお答えしていきます。
- 草薙の剣が「本物」かどうかに関する様々な説
- 神話における起源から現在の所在地に至るまでの流れ
- なぜ神剣を直接見ることが許されないのか、その理由
- 歴史上のミステリーや目撃者に関する興味深い逸話
本物?草薙の剣の正体と神話の謎
そもそも実在しますか?
「草薙の剣は本当に実在するのか」という、多くの方が抱くであろうこの根源的な問いに、単純な「はい」か「いいえ」でお答えすることは、残念ながらできません。なぜなら、この剣の「実在」という言葉の意味が、どの視点に立つかによって大きく異なってくるためです。
まず、日本の神話や伝承の世界においては、草薙の剣は間違いなく「実在」します。日本最古の正史である『古事記』や『日本書紀』には、その存在が明確に記されています。これらは単なる物語ではなく、日本の成り立ちを語る上で根幹をなす書物です。その中で剣は、天照大御神から皇室の祖先へと代々受け継がれてきた極めて神聖な宝物「三種の神器」の一つとして位置づけられています。この文脈において、剣は日本の正当な統治者の証であり、その霊的な力は計り知れないものとされ、その存在を疑うことは、伝承そのものを問うことと同義になります。
一方で、現代の歴史学や考古学といった科学的な観点から見ると、その実在を物理的に証明することは極めて困難です。草薙の剣は、皇室の最も重要な神器として熱田神宮の御神体(ごしんたい)として祀られ、厳重に秘匿されています。御神体とは、神様の霊が宿る依り代であり、神職の方でさえ直接目にすることは許されない、信仰の核心そのものです。これまでいかなる科学的な調査も行われておらず、今後も行われる可能性は限りなく低いでしょう。そのため、剣の材質、製作年代、保存状態といった物理的な情報を客観的に確認した者は誰もいない、というのが厳然たる事実です。
したがって、「実在しますか?」というご質問には、「伝承上は熱田神宮に御神体として現存すると固く信じられているが、その存在が物理的に証明されたことはない」とお答えするのが、最も誠実な表現となります。その存在は、科学的な証明という物差しでは測れない、信仰と畏敬の領域にあると言えるでしょう。
天叢雲剣は誰が作った?その形と起源
草薙の剣という名前は、実はこの剣が持つ二つ目の名です。元々は「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と呼ばれていました。この剣の神秘的な起源は、日本神話の中でも特に有名で、ダイナミックな八岐大蛇(やまたのおろち)退治の物語に遡ります。
神話における起源と名前の由来
日本の神話を記した二大書物、『古事記』と『日本書紀』によれば、英雄神である須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原(たかまがはら)を追放された後、出雲国(現在の島根県)に降り立ちます。そこで、八つの頭と八つの尾を持つ巨大な怪物、八岐大蛇への生贄として愛娘を奪われ嘆き悲しむ人々と出会いました。
参考資料:国立国会図書館『古事記』
義憤に駆られた須佐之男命は、強い酒(八塩折之酒)を八つの樽に満たして大蛇を待ち伏せ、見事に酔い潰れたところを十束剣(とつかのつるぎ)で切り刻み、退治します。その際、大蛇の尾を切り裂いたところ、中から一本の、これまで見たこともない立派な太刀が出てきました。これが天叢雲剣です。須佐之男命は、この不思議な剣を高天原の主神である姉の天照大御神(あまてらすおおみかみ)に、自身の非礼を詫びる証として献上しました。
この物語から分かるように、神話においては「誰が作った」という人為的なものではなく、「神聖で強大な存在(八岐大蛇)の中から奇跡的に現れた、神の力の結晶」として描かれています。その後、この剣は皇室の祖先である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降り立つ「天孫降臨」の際に、八咫鏡・八尺瓊勾玉とともに授けられ、皇位の証である三種の神器の一つとなりました。
名称 | 由来となった神話 | 主要な人物 |
天叢雲剣 | 八岐大蛇の尾から出現した物語 | 須佐之男命 |
草薙剣 | 日本武尊が東征の際に草を薙ぎ払った逸話 | 日本武尊 |
記録から推測される剣の形
草薙の剣の具体的な形や姿については、神聖な御神体であるため誰も見た者がおらず、正確なことは分かっていません。しかし、いくつかの貴重な記録から、その姿をある程度推測することは可能です。
最も有名な記録は、江戸時代の熱田神宮の神官、玉木正英が書き残したとされる『玉籤集(ぎょくせんしゅう)』に見られます。それによると、神官たちが禁を破って御神体の箱を開けた際、剣は石の箱に納められていたとされます。その長さは約二尺八寸(約85cm)、刃先は菖蒲(しょうぶ)の葉のように鋭く、中央部が厚くなっており、全体的に白っぽい色をしていたと記されています。
「菖蒲の葉に似ている」という表現は、後の時代に主流となる片刃で反りのある「刀(かたな)」とは異なり、両刃で真っ直ぐな古代の「剣(つるぎ)」の様式を示唆しています。この記述が事実であれば、弥生時代から古墳時代にかけて作られた銅剣や鉄剣の様式と一致する可能性も考えられ、歴史的ロマンを掻き立てます。ただし、これもあくまで伝聞であり、実際の姿を保証するものではありません。剣の形そのものもまた、深い謎に包まれているのです。
歴史の中に残された最大の謎とは
草薙の剣の歴史は、神話の時代から現代に至るまで、その神秘性ゆえに数多くの謎に満ちています。その中でも特に有名で、歴史的な議論の的となっているのが、剣が一度失われたのではないかという説です。
壇ノ浦の戦いでの消失説
最も有力視されている謎の一つが、源平合戦の最終決戦である「壇ノ浦の戦い」(1185年)で、草薙の剣が関門海峡の底に沈んで失われたという説です。平家が滅亡する際、幼い安徳天皇の祖母である二位尼(にいのあま)が「海の底にも都はございます」と告げ、三種の神器のうち宝剣と神璽(勾玉)を抱いて入水したと、鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡(あづまかがみ)』などに記されています。
この時、神璽(八尺瓊勾玉)と神鏡(八咫鏡)は回収されましたが、宝剣だけはついに見つからなかったとされています。この記録に基づき、現在、熱田神宮にある剣は、その後に作られた複製品、すなわち「形代(かたしろ)」ではないか、という見方が生まれました。
一方で、熱田神宮側の伝承では、壇ノ浦に持ち出されたのは元々宮中で儀式用に使われていた形代の剣であり、御神体である本物の剣は創建以来一度も熱田神宮を離れていないと主張しています。どちらが歴史的な真実なのか、今となっては確かめる術はなく、最大のミステリーとして語り継がれています。
新羅の僧による盗難事件
もう一つ、剣の霊的な力を示す有名なエピソードが、『日本書紀』に記された盗難未遂事件です。668年、新羅の僧侶であった道行(どうぎょう)が熱田神宮から草薙の剣を盗み出し、祖国へ持ち去ろうとしました。
しかし、道行の乗った船が海へ出ると、突然激しい嵐に見舞われ、どうしても沖へ進むことができませんでした。神の怒りを恐れた道行は、これは剣の神威によるものだと悟り、盗みを断念。日本へ引き返し、剣を朝廷に差し出したと伝えられています。この事件をきっかけに、朝廷は剣の重要性を再認識し、より厳重に宮中で管理するようになったと言われています。
これらのエピソードは、草薙の剣が単なる歴史的な宝物ではなく、国の運命を左右するほどの霊的な力を持つと、古来より人々が固く信じてきたことの証左と言えるでしょう。その歴史は、常に神秘性と謎に彩られているのです。
本物?草薙の剣のありかと禁忌の理由
今どこにある?熱田神宮に祀られる経緯
草薙の剣は現在、名古屋市熱田区に鎮座する熱田神宮の御神体(ごしんたい)として、最も神聖な場所に祀られているというのが、公式な見解です。日本の歴史を通じて、そのほとんどを皇居内で祀られてきたこの神剣が、なぜ尾張の地(現在の愛知県西部)の熱田に永く鎮まることになったのでしょうか。その経緯には、日本古代史における伝説的な英雄、日本武尊(やまとたけるのみこと)の悲しくも勇壮な物語が深く関わっています。
英雄・日本武尊と剣の物語
物語は第12代景行天皇の時代に遡ります。皇子であった日本武尊は、父である天皇の命を受け、当時まだ朝廷の支配が及んでいなかった東国の平定へと旅立ちます。その出発に際し、叔母であり伊勢神宮の斎宮であった倭姫命(やまとひめのみこと)を訪ねました。倭姫命は甥の身を案じ、伊勢神宮に祀られていた天叢雲剣を「この剣をあなたの身を守るものとして大切にしなさい」と授けました。
東征の途中、相模国(現在の神奈川県)で、日本武尊は敵の欺瞞にはまり、四方を火に囲まれた広大な野原で絶体絶命の窮地に陥ります。炎が迫る中、日本武尊は倭姫命から授かった天叢雲雲剣を抜き、燃え盛る草を薙ぎ払って火を防ぐための防火帯を作りました。すると不思議なことに、風向きが逆へと変わり、炎は敵の方へと向かって焼き尽くしたのです。この奇跡的な逸話から、剣は「草を薙ぐ剣」、すなわち「草薙剣」と呼ばれるようになったとされています。
熱田の地に祀られた理由
数々の困難を乗り越えて東征を成し遂げた日本武尊は、その帰路に尾張国を訪れ、現地の有力な豪族の娘であった宮簀媛命(みやすひめのみこと)と深く愛し合い、結婚の約束を交わします。そして、草薙の剣を愛する妃の元に形見として預けました。しかし、日本武尊は剣を手放したまま、滋賀県と岐阜県の境に位置する伊吹山の荒ぶる神を討伐しに向かってしまいます。神剣の加護なくして山の神に挑んだことは大きな過ちでした。山の神の祟りによって重い病を得た日本武尊は、故郷への帰還も叶わず、伊勢国能褒野(のぼの)の地でその波乱の生涯を終えたのです。
最愛の夫の死を深く悲しんだ宮簀媛命は、日本武尊が残した草薙の剣を、ただ保管するのではなく、その偉大な御霊とともに祀るための社を尾張の地に建てることを決意しました。これが熱田神宮の始まりであると、神社の由緒ではっきりと伝えられています。以来、草薙の剣は一度もその地を離れることなく、熱田神宮の最も神聖な御神体として、千数百年の時を超えて現代まで祀られ続けているのです。
参考資料:熱田神宮公式サイト『初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋』
なぜ見てはいけない?一般公開されない理由
伝説の神剣が熱田神宮に祀られていると聞けば、一目見てみたいと思うのは自然な探求心かもしれません。しかし、たとえ熱田神宮を訪れたとしても、私たちが草薙の剣そのものを目にすることは決してできません。その理由は、この剣が極めて神聖な「禁忌(きんき)」の対象であると同時に、物理的にも人々の目から厳重に秘匿されているからです。
神聖なタブーとしての存在
草薙の剣は、単なる歴史的な宝物ではなく、日本国民の総氏神である天照大御神の御霊が宿る御神体そのものです。神道の世界において、御神体は神様が宿る依り代であり、人間の目には見えない神威を形あるものとして表す、最も神聖な信仰の対象物を指します。そのため、国民の象徴である天皇陛下でさえも、この剣を直接見ることは許されない、至高至尊の存在とされています。
古来より、この剣を見た者には神罰が下り、祟りがあると固く信じられ、恐れられてきました。実際に、江戸時代中期に熱田神宮の神官数名が好奇心から禁を破り、御神体の納められた箱を開けてしまったという話が『玉籤集裏書』に記録されています。それによれば、箱の中から現れた剣は眩い光を放ち、見た神官たちは次々と高熱を発し、原因不明の病で亡くなるなど、不幸な出来事が相次いだとされます。この話の真偽はともかく、人々が剣に対して抱いてきた、計り知れない畏敬の念の深さがうかがえます。
一般公開されない物理的な理由
神聖なタブーであることに加え、草薙の剣はそもそも一般の参拝者が立ち入ることのできない、本殿の最も奥深くに安置されています。2021年に開館した熱田神宮の博物館「剣の宝庫 草薙館」には、皇室や将軍家から奉納された数々の貴重な刀剣が約450点も収蔵・展示されていますが、当然ながらそこに御神体である草薙の剣は含まれていません。
また、皇位継承の際に行われる「剣璽等承継の儀」で、新天皇陛下が受け継がれる剣も、「形代(かたしろ)」と呼ばれる精巧に作られた複製品です。形代とは、御神体の御霊を分けて祀るための依り代であり、それ自体も極めて神聖なものですが、本体である御神体が皇居の外に出ることは決してありません。この徹底した秘匿主義こそが、草薙の剣の神秘性をさらに高めている要因の一つです。要するに、私たちが見ることができないのは、それが神そのものであり、穢れある人間の目に触れるべき存在ではない、と古来より考えられているからです。
見た人はいる?エリザベス女王の噂
「誰も見たことがない」というのが草薙の剣の原則ですが、その長い歴史の中、あるいは現代において、例外的に目撃したのではないかとされる人物の話がいくつか語り継がれています。これらの話は、神剣の神秘性をより一層引き立てています。
歴史上の目撃者とされる人物
記録上、数少ない目撃者として名前が挙がるのが明治天皇です。明治維新によって江戸幕府が倒れ、天皇中心の新しい国づくりが進められる中、神道は国家の精神的支柱として位置づけられました(国家神道)。その一環として、1878年(明治11年)、明治天皇が熱田神宮を訪れ、自ら御神体である草薙の剣を拝観(確認)したと伝えられています。これは、天皇が神々の直系の子孫であり、三種の神器の正当な継承者であることを改めて天下に示す、極めて重要な行為でした。しかし、その際に天皇が何を見たのか、剣がどのような様子であったのかについての公式な記録は一切残されていません。
また、前述の江戸時代の神官たちのように、禁を破って見てしまったという話も存在しますが、これらはあくまでも神罰の恐ろしさを伝えるための伝説であり、客観的な目撃証言とは言い難いものです。
エリザベス女王が目撃したという説の真相
近年、特に興味深い噂としてインターネットなどを中心に広まっているのが、「英国のエリザベス2世女王が草薙の剣を見た」という説です。これは、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が国家元首として初めて公式来日した際、昭和天皇が日英の特別な友好の証として、女王に三種の神器を見せた、という内容です。
しかし、この話には明確な根拠や公式な記録は一切存在しません。日本の宮内庁や英国王室、外務省など、いずれの公式機関からもそのような発表があった事実はなく、歴史的な事実として確認することは不可能です。また、国家の最高秘宝であり、信仰の核心でもある御神体を、外交儀礼上の親善のために他国の元首に見せることは、常識的に考えて極めて起こりにくいとされています。
この噂は、世界で最も長い歴史を持つ日本の皇室と英国王室の間に存在する、深い敬意と親密な関係性、そして三種の神器が持つ計り知れない神秘性が相まって生まれた、現代の都市伝説と考えるのが最も妥当でしょう。多くの人が「もしかしたら、そんな特別なことがあってもおかしくない」と信じたくなるほど、草薙の剣が持つ物語性が強いことの、何よりの証左とも考えられます。
【結論】本物草薙の剣の存在を考える
- 草薙の剣の実在は物理的には証明されていない
- しかし神話や伝承の上では熱田神宮に現存する
- 元々の名は天叢雲剣で八岐大蛇の尾から出現した
- 須佐之男命が発見し天照大御神に献上された宝剣
- 日本武尊の逸話から草を薙ぐ剣として名を変えた
- 英雄の死後その妃が熱田神宮を建て剣を祀った
- 壇ノ浦の戦いで海に沈み失われたという説もある
- 熱田神宮側は御神体は一貫して神宮にあると主張
- 剣の形は菖蒲の葉に似ているという記録が残る
- 御神体そのものであり見ると祟りがあるとされる
- 天皇陛下でさえ直接見ることは許されていない禁忌
- そのため一般公開も博物館での展示もされていない
- 明治天皇や江戸時代の神官が目撃したとの伝説も
- エリザベス女王が見たという説は現代の都市伝説
- その存在は科学を超えた信仰とロマンの領域にある